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トップ  >  上野の名所旧跡  >  彰義隊墓所
 彰義隊死者を火葬にした場所に建てられた「戦死の墓」は、上野戦争で戦死した彰義隊の墓である。
慶応四年(1868)五月十五日、押し寄せる薩長軍に抵抗して上野の山に立てこもった幕府側の彰義隊は、江戸を守るの意気に燃えたものの、一日で敗れ、ほとんどが戦死した。
その数は二百六十名にものぼったという。
遺体は賊軍として扱われ、見せしめのためと捨ておかれたが、円通寺(荒川区南千住1−59)の僧により手厚く葬られた。
上野戦争で砦となった黒門は、これらの関係で現在円通寺に保存されている。
江戸の市民は、上野の戦いを固唾をのんで見守ったが、市民の多くは彰義隊の味方だった。
徳川三百年の長い歴史をとおして、市民は幕府への恩義を感じ、彰義隊や将軍徳川慶喜や輪王寺宮などをそれぞれ贔屓にして、それに襲いかかる薩長軍を敵とみなすのは当然だった。薩長軍は上野の山を焼きつくし、その被害は山下、根岸にも及んだという。
辛うじて逃げ落ちた彰義隊士を、寺の縁の下に匿った(根岸の永称寺)とか、周辺には逸話は多いはずである。
八月一日を八朔といい、徳川家康が江戸入府の日を記念して、江戸では武士はもちろん、市民も家族親類を集めて祝い、贈答しあうのがしきたりとなったが、この習俗は戦前までは東京でもかなりみられた行事だった。
それ故、彰義隊への晶肩、手助けは江戸っ子の本領だったかもしれなかった。
明治維新後も、江戸市民の間で上野の山に怨霊が出る噂がまことしやかに伝えられ、まただれもがそう信じこんでもいた。
それは彰義隊の霊がおさまらないとの、市民の心根でもあった。  
ちなみに、上野戦争を錦絵に描くことすら禁止され、明治七年になるまで出版許可は与えられなかった。
上野戦争は、当時として出版には絶好のテーマだった。そのため、利に聡い版元は、上野の攻防戦とわかる題材を往時に求め、例えば織田信長の本願寺光左を攻撃した「石山本願寺合戦」とかの名目で、錦絵を刷りあげた。絵師の月岡芳年などは、上野戦争を実際に目撃して描いたひとりで、「魁題百撰相」などは有名だった。
明治七年、彰義隊の怨霊退散祈祷が行われ、政府も彰義隊のことを不問に処したことで、それ以降憑きものがおちたように上野から幽霊が消えたといわれる。
ここらにも江戸市民の生き方が現わされていると思う。
その明治七年に彰義隊の墓の建立が正式に許可されることになるが、その建立者の一人で、また墓所を今日まで守りぬいたのは、彰義隊の生き残り隊士小川興郷一族だった。
寄金を集め、そして借金を重ねた末、最初青銅の墓を造るが、維持できず、その後、現在の墓が明治十四年五月建てられた。
墓石は、山岡鉄舟の雄渾な筆で「戦死の墓」とだけあり、建立当時の明治政府をはばかる意が伝えられてもいる。
この七メートル余の墓の直前に、六十センチほどの小さな墓標があるのは、墓を建てた時、埋葬された中から出てきたもので、「発願回向主沙門松国」とあり、それは建立者寒松院と護国院の匿名とも受けとれた。
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