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トップ  >  上野の名所旧跡  >  子規庵と書道博物館
 都史跡指定の子規庵(根岸2−5−11)は、寛永寺板の下をJR線の線路沿いに入ったところで、かつて正岡子規(1867〜1902)が明治二十七年二月から同三十五年九月十九日没するまでそこに住んでいた。子規を囲んで、高浜虚子、河東碧悟桐、小沢碧童、中村不折、伊藤左千夫などがたえず集まり、子規の言葉、動きひとつにも強い影響を受けたという。

 子規はそこで、俳誌『ホトトギス』、歌誌『アララギ』を発行し、伝統の俳句、短歌を否定し、明治の新しい感覚での俳句、短歌の革新を呼びかけた。しかし、俳句、短歌の枠を守ろうとするとき、むしろ、連句に連日連夜鼻血を出すほど夢中になったともいわれ、あるいは連句の奔放さに、文学性をみつけ出していたのかもしれなかった。

 晩年は肺結核で寝たきりの状態だったが、六畳を病室にとり、容座敷は八畳間で、たえず来客が尽きなかった。庭には鶏頭、秋海棠、萩などを植え、自然のままにして、当時は上野の森が子規のいう寒園のいい背景になったともいう。

 弟子の碧梧桐は、寝たきりの子規の肩をもみ、またある時は股の奥のほうまでこすってやり、子規を忙惚の状態にしたと『子規の回想』(碧梧桐著)にある。

 子規庵は戦災を受けて焼失したが、戦後修復され、遣品などは子規の友人だった寒川鼠骨の子息により管理されている。子規庵前の書道博物館(根岸2−10−4)は、子規と仲の好かった洋画家中村不折(1866〜1943)が、大正二年から昭和十八年没するまで住み、収集した中国書道に関する資料で、昭和十一年には書道博物館を開館した。

 不折の住居は戦災で焼失したが、博物館は鉄筋コンクリートのため焼け残り、都旧跡に指定された。また、収蔵品のうち紙本墨書三国志呉志第十二巻など十一点は国の重要文化財に指定され、内容高い博物館として注目されている。
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