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トップ  >  上野の名所旧跡  >  将軍霊廟
 徳川将軍霊廟は国立東京博物館の裏側にあり、拝観には寛永寺の許可がいる。

 東側の忍岡中学校と新坂(このあたりは新坂貝塚の呼称がある)に面した小高い丘は、享保五年(1720)焼失した大尊院霊廟跡で、三代将軍家光が日光に葬られる以前はここに霊廟があり、以後、徳川家菩提寺の芝増上寺と寛永寺に分け合う形で、将軍霊廟が造営されていった。

 中央第一霊廟には、四代家綱(1641〜1680)、十代家治(1737〜1786)、十一代家斉(1773〜1841)の将軍墓が、その左側第二霊廟には、五代綱吉(1641〜1706)、八代吉宗(1684〜1751)、十三代家定(1824〜1856)の将軍墓がある。

 戦災を受けて残ったのは、勅額門や水盤舎、中門、宝塔などだが、戦前までは前面に二天門、勅額門をそなえ、拝殿、相の問、回廊、本殿、奥の院をもって構成された権現造りの霊屋があった。ちょうど上野東照宮の造りを想像してみると分かると思う。

 特に綱吉を祀った常憲院霊廟は元禄時代という文化繚乱たる時代を築きあげた将軍だけに、宝永六年(1709)没するや、直ちに霊屋が造営され、それは生前の華やかさをまさに象徴させるものでもあった。

 また、宝塔は上州高崎城主大河内輝貞が、綱吉への殉死の代わりに高崎藩の財政すべてをかけ造営したもので、宝塔前の中門は青銅で鋳造され、むくの仕上げという金のかけようだった。

 綱吉墓の右側にある八代吉宗の有徳院宝塔をみると、吉宗という人の生前の倹約政策が死後も画く守られており、霊廟の造営を禁止し、常憲院霊廟に合祀させるなど、綱吉の華美を戒しめるに十分なものがあった。霊廟の中にも、幕府財政の移り変わりがおのずと知れてくるのである。
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