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トップ  >  上野商店街連合会  >  アメ横今昔物語〜今井均
アメ横御徒町

「買った、買った、買った〜い」の威勢のよい掛け声は、アメ横の“顔”でもある。
アメ横には何でもあるのだ。ないのは、上品ぶったところである。
こんな横丁、日本中捜してもまずない。客も多く、ウィークデーでも一日二十五万人以上、狭い通りは押すな押すなの人いきれである。
JRのラッシュ並の130%混雑なども珍しくない。
これが毎年歳未になると、正月用品を買う買物客で膨れ上がり、一目百万人以上が通りに溢れ、機動隊が交通整理に当たるぼどだ。
店舗数約550軒、一店舗平均の売り場面積約四坪。
その狭い一軒の店がはじき出す年間平均売上げが、推定で二億円という。地方への卸売りも含めての数字とはいえ、業者は笑いがとまらない。
アメ横は不況を全く知らないのだ。
このエネルギーは、いったいどこから湧いてくるのか。 JR上野駅から御徒町にかけてのガード下マーケット、およそ1500平方メートルの地域に、目白押しに並ぶアメ横が、「アメ横」と呼ばれるようになったのは、昭和22年秋ごろからだ。その前は「上野のヤミ市」、戦前は「しよんべん横町」である。
この「ヤミ市」に青空市場が出来たのは終戦直後である。ヤクザ連、復員者が物々交換したり、ミカン箱や風呂敷包を広げ、青空市場で、食べ物を始め鍋釜、茶わん、軍靴などを売っていた。売るといっても、バナナの叩き売りのようなやり方だ。
その青空市場に、昭和二十一年五月、マーケットが建った。近くで自動車修理工場を営む近藤広告さんが、一区画、約一坪半ぐらいのスペースを25区画つくり、バラック建築で簡易マーケットを建設した。
一区画の権利金は1万8000円だった。俗に言う“三角地帯”のアメ横心臓部の誕生である。
アメ横には、ありとあらゆるものが揃っていた。へンな話、豚の尻尾まであった。だが一つだけないものがあった。飴である。
ある日、だれかがこう言った。 「あの列車待ちの行列の人たちにキャンディを売ったらどうだろう」  それを受けて、 「うん、そいつは面白い」 「商売になるぞ、こいつあ」 「しかし、ちょっと待て。キャンディを作る機械やら道具はどうするんだ」  品物さえあれば飛ぶように売れた。
飴を売れば間違いなく売れる。では、「どうすればいいのか」となると、次なる答えが出て来なかった。
当時、アメ横で一人、飴を売っていたのが田中謙一さんだ。目立たず、隠れるようにして売っていた。田中さんを訪ね、仕入先を間き、製造屋を捜した。
次に、どう売るかである。考えた。結果、そこは終戦の混乱期をつぶさにみている関係者である。転んでもただでは起きない、ず太さが備っている。 「こうしよう」  智恵を絞った揚句、こんな考えができあがった。
綿糸町駅周辺に内緒で飴製造し、ヤミ売りしていた“業者”に声を掛け、サッカリンを安く配給してやるから、上野に来て飴を売らせる。店舗を歩合で賃貸し、夕方店仕舞のときに、売上げの二歩を現金で支払うという条件である。
飴製造屋たちは、二つ返事で快諾、開店したら予想外の売れ行きに、関係者も目を丸くするほどの成果を挙げた。  周りの商店主が、このすばらしい活況を黙ってみているわけはない。それから数日後至るところの店舗に飴が所狭しと並べられ、飴の街に一変した。甘い飴の臭いが街を覆い、何かハイカラな感じさえあった。
ずらり並んだ飴屋は300軒に近い。都内はもちろん、遠くは新潟、酒田、新津、さらに、青森、北海道まで、旅客のロコミで「上野の飴屋」の話が広まり、日を追って客が増え、大変な賑いぶりだった。  バター、ボール、あんこ飴、ドロップ、金太郎飴、ニッキ鉛、黒玉、甘納豆、かりんと、進駐車から放出されるチョコレート、ガムまでが現われ、だれかれとなく「アメ屋横丁」と言うようになった。
この三石軒近い店舗の一日の売上げが1億円を超すことがたびたびあった。三十五年前の一億である。  いまでも、アメ横関係者の中には、「ヤミ市といわれたころ、路上にミカン箱を置いて“甘水”を売った。水道水に赤い色をつけて、多少サッカリンなどの甘味を加え、ミカン水だよと言って売った。一杯二円か三円だったように覚えている。夜は、屋台を曳いて支那そばやおでんなども売った。よく売れたねえ」  と述懐する声も多い。
火事もあった。昭和24年12月、56年5月と二度の火災である。 だが、アメ積商店街の底辺に息づくものは「こんなことでへこたれるものか」というパワーだった。
アメ積商店街は、18支部からなる連合商店街で、これらをまとめて「アメ横問屋街連合会」と呼称している。昭和27年4月、協力会が出来、44年に改称し現在に至っている。会員数約300人。結束はめっぽう国い。
ヤミ市、近藤マーケット、飴売り、火災、特需景気で潤った三十年代、輸入品の販売、「ファッションはアメ横にいけばいい」と言われた時代もあった。  悲喜こもごものエピソードがアメ横にはある。
地下一階、地上玉階の、総工費約二十二億円のアメ横センタービルもそのひとつである。ビル建設の話が持ち上がったのは、昭和32年だった。 当時、93店主らが集まり、“上野振興株式会社”を創立35年に各地のビルラッシュに刺激されてか、新ビル計画の話が持ち上がった。敷地面積1300平方メートル、総工費3億円、37年1月に着工、同年11月には第一期工事が終えた。
続く、御徒町駅よりガード下を占める“上野中央食品街”でも35年に改造し、関連マーケットの新しいビルを建てる話が進められている。 すでに、二十年も前のことである。老朽化したマーケットは、東京消防庁から“防災危険地域第一号”のレッテルを貼られた。だが、どうすることもできない。正直、「まいったなァ」という気持ちだった。問題は仮営業所をどうするかであった。助けてくれたのは国鉄である。幸い、国鉄が変電所跡(約二千平方メートル)を貸してくれるという 「このチャンスを逃したら、永久にアメ横のビル建設はできない」と会員の多くが賛成し、建設に踏み切ったのである。 東北・上越新幹線のキーステーションになる上野、それだけに、いつまでも老朽化の激しいバラックで商売をやっているわけにはゆかない。なかには、昔のアメ横のばうが良かったとか、庶民的な雰囲気が消えるのではないか、と懸念する声もあることはある。 しかし、そんなことを言っていたら再開発の著しい渋谷、新宿、池袋に遅れてしまう。 再開発したからといって、上野の臭いが消えるわけでもないのである。上野は、断乎、上野である。新宿とも違うし、池袋とも異なる。西郷さんのある上野は、やっぱり上野なのだ。 「リンゴの唄」。「赤いリンゴに唇よせて、黙ってみている青い空、リンゴばなんにも言わないけれど、リンゴの気持はよくわかる」この歌がびったりなのは、都内てば、上野である。物悲しくはかない。反面、やるせない暖かさもある。 やはり、上野である。上野ほど話のある街を私は知らない。悲しみだけでなく、活気もある上野。 「買った、買った、買ったーい」のがなり声は、アメ横センタービルの中でも間こえる。
「さ、らっしゃい、さ、らっしゃい」 お兄さんは、二代目経営者なのだ。
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