上野論(街としての一j考察)
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上野論(上野の山の認知地図=天海の夢)
諸般の事情で更新が大幅に遅れ、大変申し訳ありません。

もうすっかり忘れ去られたことと思いますが、認知地図のお話を前回ましたよね。人は、みな同じようにひとつの町を決められた地図と歩き方に沿って訪れているわけではなく、それぞれの人が、それぞれの主観的な「認知地図」を心の中に抱いて、街を歩いているんだ、というお話でした。

この認知地図、つまり主観的なある街のイメージと結びついた地図ということですが、上野公園の歴史は、江戸・東京の庶民の心の中にある「上野の山」という認知地図をどう書き換えるか、ということでせめぎあった歴史でもありました。

上野公園のことを考えるとき絶対にはずせない参考文献に、寛永寺執事・浦井正明先生の『上野時空遊行』という本があります。その第一章には、このエントリにも引用させていただいた「天海の夢」というタイトルが付いています。

明治維新以前の上野公園は、みなさんもご存知のことと思いますが、寛永寺の境内でした。歴史に詳しい人には一般的に、寛永寺は、徳川家の菩提寺あるいは「官寺」として知られています。そこから転じて、浅草寺=民間信仰の浅草と対比して、上野はお堅い、「官」というイメージがそこから始まっているようにも理解されがちです。

しかし、この「天海の夢」と題された章の中で浦井先生は、大きく通説を覆させる議論を展開しています。
徳川家の菩提寺は、江戸時代初期には増上寺であり、寛永寺に菩提寺としての性格が加わったのは創建よりずっと後のことである。また、鬼門に位置して江戸を守る祈祷寺–というには、その方角に当たるのは浅草寺であり、実際に家康も浅草寺を祈祷寺として認めている。

では、寛永寺とは、誰が、どんな意思を込めて建てたものだったのでしょうか?

浦井先生によれば、この寛永寺という寺の創建は、江戸幕府の威信をかけた国家プロジェクトではなく、家康から家光までが深く帰依した天海僧正によるある種の個人プロジェクトだったのではないか、と。
この議論は、近年の上野公園再整備の中で発掘された寛永寺創建当時の木材が、あまり質のよくないものであったことから説き起こされます。たとえば、清水観音堂の木材には、檜や欅ではなく、上野の山に自生していた松の木がそのまま使われているのです。また、初期の寛永寺の各伽藍の建立に、時間がかかり過ぎていることにも注目する必要があります。
それらはすなわち、寛永寺の創建に幕府の威信をかけたという割には、お粗末過ぎる結果ではないか、と。むしろ、天海が、幕府とは異なる個人的な思いをこめて建てようとした寺だからこそ、幕府からの十分な援助が受けられず、その結果として、諸大名から天海の個人的なつながりで工面した資金と私財だけで、寛永寺の伽藍を整備しなければならなかったからこそ、このようなことになっているのではないか、と。

では、天海はその「個人プロジェクト」で何をしたかったのか?

一言で言えば、上野の山に京都・滋賀方面の名所(「などころ」と読みます)を持ってきて、娯楽の少ない新興都市・江戸に、庶民の楽しみの場を作ってあげようということ。
それらの今に残っているものが、清水観音堂であり、不忍池の弁天堂です。

清水観音堂は言うまでもなく東山の清水寺に倣っています。
不忍池はそもそもそれ自体が、山の下に広がる湖=比叡連山のもとに広がる琵琶湖。その中の小島に弁天さまを抱く竹生島を模して創られたのが、あの弁天堂です。まさに、「見立て」の発想ですね。

また天海は、建築物としての名所だけでなく、山の植生にも配慮し、桜や紅葉もたくさん移植しました。

こうして上野は、急速に庶民の行楽地として定着し、門前の広小路も発達し、江戸きっての繁華街の一つとして、今に至る賑わいを見せていくことになるわけです。
まさに、上野を江戸きっての名所にしたいという天海の夢は、ちゃんと実を結んだわけです。

しかし、そもそもどうして天海は、こんなことをしたのでしょうか?
浦井先生は、天海には権力ゲームから一歩退いて、政治の中枢から距離を置こうという性格があったことをその理由に挙げています。だからこそ、家康から家光までが圧倒的に私淑する存在で、望めばどんな幕府の支援でも得られる状況にありながら、あえて自分のできる範囲での寛永寺の建立を目指したというのです。

ただ、歴史の素人ながら考えるに、寛永寺・上野の山を「庶民の行楽地」にした意図には、やはり天海の別の信念もあったように思います。
すなわち、「京都の文物を移植して新興都市江戸の立ち遅れた文化レベルを引き上げ、それを庶民に親しまれる形で示す。そんな「文化政策」をわかりやすく展開することが、徳川幕府への江戸庶民の愛着や忠誠心をはぐくむための、遠回りだが絶対に欠かせない道なのだ」と、天海は考えていたのではないでしょうか?
今風に言えば、「ソフトパワーによる統治」というやつです。

実際に、浦井先生も触れているとおり、純粋な官寺として建てられた増上寺は、その格式とは裏腹に、現在に至るまで庶民の心の中に根付く東京名所とは言いがたいものがあります。江戸の庶民にとって、なんだかいかめしいものだったわけですね。

それに対して、寛永寺。
「公方さまのご威光」の輝くお山ながら、春は花見、秋は紅葉狩り。
庶民の心の中の江戸地図、まさに「認知地図」には、「家族や気のおけない仲間と楽しむ楽しい場所」にほかならないものとして刻まれたことでしょう。
それが、心の中で「将軍様のご威光」と結びつく。こんな楽しい場所を作って開放してくれる将軍家、あなありがたや、と。徳川将軍家に対する庶民レベルでの慕敬の念は、こんな形でも強化されていったはずです。

おそらく、天海がここまで考えていたのは間違いないでしょう。
庶民の心を、この上野の山という空間を通して掴むことこそが、徳川300年の安泰につながるはずだ、と。
しかし、天海はその意図を、幕府の公式のプロジェクトとして汲んでもらおうとまでは思わず、あくまでも私的なレベルにとどめていたのでしょうか。

その後寛永寺には、ご存知の通り、明治維新の動乱で彰義隊が立てこもり、大半が灰燼に帰します。
そしてそこを引き継ぐことになった明治新政府は、この厄介な場所を、やはり何とかしなければと強く思ったはずです。
江戸庶民の認知地図に、楽しい記憶と、将軍家への慕敬の念とがない交ぜになって深く刻み込まれたこの山を、どうするか。それは、仇敵の本拠地に乗り込んだ「田舎モノ政府」が、お膝元の「東京」をうまく治める重要ポイントとなるはずです。

もちろん彼らは、適切な手を打って、江戸、あらため東京市民の上野に関する認知地図を、そう時間をかけずにごっそり書き換えていきます。

それはまた、次の話に。
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